戸畑の町の紹介

戸畑区は、北九州市のほぼ中央に位置し、面積は約16.7k㎡、人口は約66,000人。北部は区の面積の約45%をしめる新日本製鐵八幡製鐵所があります。
西部の洞海湾に面した地域には日本水産、東洋製罐、明治製菓、旭硝子など、多くの会社や工場があり、これらを加えると戸畑区の面積の約57%が工業用地になっています。 戸畑区は、明治時代の中ごろ(1980年代)までは農業と漁業をいとなむ、人口の少ない静かな村でした。
 1901(明治34)年、八幡村に八幡製鐵所が建設されてから、戸畑に明治鉱業、戸畑鋳物(のちの日立金属)、旭硝子、日本水産など、多くの会社や工場がつくられて、工業都市としてめざましく発展しました。戸畑には日本の経済、産業を支えていた企業も多くありました。
 現在は、21世紀に向かって新たな産業を育てるために、北九州テクノセンターを中心にあらたな事業への取り組みが進められています。

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1996(平成8)年、戸畑区中心部


戸畑と言えば戸畑祇園大山笠。国の重要無形民族文化財に指定されており、博多祇園山笠、小倉祇園太鼓とともに福岡県夏の三大祭りと称され、全国的に有名な祭り。
200年の歴史を誇り、昼は幟大山笠、夜は古式ゆかしい大段に重ねた光のピラミッドに姿を変えて「ヨイトサ、ヨイトサ」のかけ声とともに進んでいく姿は圧巻です。

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国指定重要無形文化財 戸畑祇園提灯大山笠


~戸畑祇園大山笠~ 1

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 福岡県夏の三大祭りの一つ。亨和2年(1802)村中に疫病が流行し、須賀大神(須佐ノ男命)に祈願し平癒を祝ったのが起源とされています。
 昼はのぼり大山笠、夜は309個の提灯大山笠で東・西・中原・天籟寺の大山笠と中学生を主体とした小若山笠が出ます。昼ののぼり大山笠は台上に12本の幟を立て前面は八重純白大菊花四輪、脊面は縫箔の径2mの見送り、側面は緋羅紗の金銀糸の武者絵で飾られている。
夜の提灯山笠は昼間の台上に4本の櫓をピラミッド状に12段、309個の提灯、地上10mになる。囃子は横笛(3人)、鉦、太鼓、合せ鉦(ちゃんぷく)で5種類の囃子は時を異にして奏せられる。

この戸畑祇園は昭和32年福岡県の文化財、55年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

①昔ながらの原型をとどめる。特に幟山の汐まき行事など風俗があって珍しい。
②夜の提灯山笠は、組立てと豪華さで他に類例がない。
③囃子も独特で、格調にすぐれている。
④引幕の刺繍は貴重な資料とされている。

~戸畑の由来~ 2

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 北九州のほぼ中央に位置する戸畑は万葉集に「ほととぎす とばたの浦にしく浪の しばしば君を見むよしかも」と謳われ日本書紀、筑前風土記にも「飛旗、鳥旗」と記されているように、古くから「とばた」と呼ばれていた。
 現在の戸畑という地名は、慶長年間の筑前古図の中に「戸畑村」として登場しており、明治初期までは田園と白砂青松の続く半農半漁の一寒村であった。明治中期、鉄道・電車の関連周囲の発展に連れ、工業都市として都市形態を整え、製鉄所を中心とした海面埋め立てによって大正13年市制を施行するに至った。

~飛旗八幡宮~ 3

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 鎌倉時代、遠賀郡花尾城主の麻生氏が枝光に八幡大神を祀ったのが始まりで、江戸時代に鳥旗に移り、大正9年に現在の浅生に遷座した。
八幡大神、須賀大神、名護屋大神が祀られている。

祭事 春季大祭  4月14~15日
祇園祭   7月第4土曜・日曜をはさむ3日間
夏越祭   7月14~15日
秋季例祭  10月14~15日

~戸畑そば~ 4

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 飛旗八幡宮の境内に、神饌蕎麦耕作地という碑がある。いつ、どこの畑に建てられたものか明らかでないが、神饌として"そば"が耕作された事跡を物語っている。

 文化年代(1814年頃)「去年は不出来で"そば"はございませんが、この節の御用は格別のことですので"種子そば"として囲っているものの......」

文化十一年三月戸畑村庄屋○○○と古文書が残っている

~牧水の句碑-飛旗八幡宮境内~ 5

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「新懇のこの坂道のすそとほし 友のすがたの其処ゆ登り来」大正14年11月、戸畑の毛利雨一楼宅への途中、荒生田から鞘ヶ谷を越えた時の作である。

~戸畑区役所~ 6

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大正13年(1924)市制施行当初、市役所は通町の旧町役場を庁舎としていた。老朽化したので現在地に建設した。

起 工  昭和7年(1932) 12月21日
竣 工  昭和8年(1933) 12月23日
建坪延  839坪
工事費総額  14万円也

~国境石―從是東豊前国小倉~ 7

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 明治4年に廃藩置県になるまでは、筑前黒田藩と豊前小笠原藩の藩界であった。堂ヶ峰(金比羅山)より流れる境川が両国の界であり、この界を中心に江戸時代には色々と紛争があった。

 箱崎協定(次回に後述)により元禄15年頃に境川の川中に建てたもので、昭和32年区役所前に移した。

~箱崎協定による国境石―從是西筑前国~ 8

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 筑前黒田藩と豊前小笠原藩との界は、中原・金毘羅山・荒尾田・大蔵・田代などでよく紛争が起こっていた。境界は古くは川、山の地形、植樹した林、祠などでなされており、一應正保年間に大まかな国繪図が出来ていたが、元禄時代になって時の幕府から石高その他の検地の必要から、諸藩に国繪図の提出を求められた事から国境紛争が表面化した。
 そこで元禄13年、筑前国箱崎村に両藩相寄って境界線を協定し、国境の印石を建てる事を決め元禄15年中原から大蔵、田代に至るまで18基を建てた。
 これが箱崎協定といわれるものである。現在14基が残っており、当時の位置のまま残っているものは6基となっている。

~河白斗 島(カワゴシマ)記念石~ 9

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 戸畑区役所の前庭に国境石と並んで河白斗島記念石がある。若戸大橋の下、戸畑側海中に周囲500m程の小島があった。通称「中の島」と言ったが、筑前風土記には「河白斗島」と訓まれている。戦国時代から城があったといわれ、慶長年間に黒田長政の出城があったが、幕府の一国一城令により元和元年取り壊された。

 明治になってコークス工場、貯炭場、造船場があったが、洞海湾の発展に合わせて昭和15年切り除いた。その島の石を残して記念石としている。

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